会計学の著書にかぎらず、広く書物には、その名声と評価が時代とともに大きく変わることがある。世にもてはやされている書物が、突如として見捨てられ、忘れ去られてしまうのは珍しいことではないが、不思議なのは、こうして忘れ去られたはずの古い書物が、ある日にまた再び注目を集めて、光の渦の真中に引き出されることである。
エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』という314頁の本は1961年に出版された(1995年に再版された)が、当時には画期的な会計学の研究書といわれ、これを読んでいないひとは、まともな会計学者ではないとみられるほどであった。この本を書いた2人の著者はいずれも経済学者であったし、また著書の内容も経済学の考え方に沿って厳密に展開されていたから、この本を読みこなすのはたいへんな難事業であった。しかし、わたしたちの大学院生時代はこの著書を避けて通れない1960年代後半であったから、当時の生活は、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』と格闘する毎日であった。
時価主義会計にはいくつかの類型があって、最近もてはやされている公正価値会計(マーク・ツー・マーケット会計)もその時価主義会計の累計の1つに属する。エドワーズ・ベルが50年前に展開したのも時価主義会計ではあるが、それは最近の公正価値会計とはかなり趣を異にしており、期末に資産を時価基準で評価するだけでなく、費用をも時価基準で評価するというもの(単純な資産再評価論ではなく、資産再評価論と費用再評価論を組み合わせたもの)であった。そのうえに、インフレーションによって生じる貨幣価値の低下にも対処する手立てを講じていたから、その理論的構想はきわめて緻密で、壮大なものであったといえよう。1960年代には、アメリカだけでなく世界中の会計学界が、このエドワーズ・ベルの時価主義会計論で沸騰したし、これに関連して時価主義会計論の著書が次々に世に出され、この議論の渦に加わった。 Moonitz(1961)とか, Sprouse(1962)の著書が先を争って読まれたのも、この頃のことである。
1973年に突如としてオイルショックが発生し、これを契機に地球的規模において物価騰貴が亢進した。この経済情勢の劇的な変化を受けて時価主義会計を会計制度に組み込むことが、各国では喫緊のテーマになった。そのとき、どのタイプの時価主義会計を制度化するかが議論の焦点になったが、最も有力視されたのがエドワーズ・ベルの時価主義会計である。インフレーションによる貨幣価値の下落にも対処する一方で、資産と費用を同時に時価基準によって再評価するというモデルが、会計制度として実際に採用されようとしたのである。しかし、結局のところ、この時価主義会計の制度化は挫折して、元の原価主義会計のパラダイムに戻ってしまった。2度にわたるオイルショックが終わると、物価も鎮静化し、時価主義会計はどこかへ蒸発した。
1980年代から1990年代を通じて、通貨危機、バブルなどが何度か発生して、その後にも、時価主義会計の採用が話題になったことは事実である。激動する経済においては原価主義会計ではビジネスをリードしきれないという批判が幾度となく提起され、この原価主義会計への批判が時価主義会計への関心をたびたび呼び覚ますことになったのである。しかし、こうした議論との関連で取り上げられる時価主義会計はエドワーズ・ベルのモデルとは別のタイプであり、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』の再評価につながるようなものではなかった。
1990年代になると、会計学の若い旗手たちによって新しいフロンティアが開発されはじめたが、その成果の1つとして注目を集めたのがFeltham-Ohlson(1995)の企業価値評価モデルである。このFeltham-Ohlsonモデルによると、しごく単純な前提をおくだけで、会計数値によって企業価値を理論的に説明する新しい途が拓けてくる。この理論モデルには幾多の示唆が含まれているが、その含意の検討プロセスにおいて明らかになったのは、Feltham-Ohlsonモデルがその基幹においてエドワーズ・ベルと考え方を共有しているという点である。こうして、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』は再び脚光を浴びることになった。
Kenneth and Whittington(2010)は、Accounting Horizons誌の最近号に2007年に昇天したBell(1924-2007)の追悼論文を掲載している。この追悼論文では、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』の偉大な功績が讃えられているが、興味深いのは、その中で触れられている2人の著者の共同研究の姿である。
Bellは第二次世界大戦に空軍のパイロットとして参戦したが、戦後には大学に戻り、1947年にPrinceton大学の経済学部を卒業した。その後2年間、ニューヨークタイムズで働いてからCalifornia大学Berkeley校に入学し、1949年にMBA を、1954年にPrinceton大学でPh.Dを取得した。Bellは1952年よりPrinceton大学で研究活動に従事していたが、研究領域は会計学とは無関係の国際経済論であり、1979年にRise Universityに移るまで、主としてアジア・アフリカの開発経済論の研究に携わっていた。Bellが会計学に親しみ、会計学の研究に励みだすのはEdwardの影響によるものである。
Edwardの方はJohns Hopkins で1951年にPh.Dを取得したが、その論文テーマは企業成長論であったから、彼も会計学から研究生活をスタートしたわけではない。EdwardはBellよりも先にPrinceton大学で経済学を教えていたから、BellにとってはEdwardは2年先輩の同僚であったが、奇しくも二人は同じ研究室を共用することになった。二人は共用の研究室で教材の開発にあたりながら、会計学についても議論を深めていき、共同研究を進化させていった。もともと会計学に大きな関心を抱いていたのはEdwardであり、彼は特に減価償却に造詣が深かったという。いずれにしてもEdwardのリーダシップのもとにPrincetonでの共同研究が発展し、その輝かしい成果が1961年に世に出されたのである。
1978年にBell とEdwardは手を携えてRise Universityに移り、ここでは会計学を基軸にして研究と教育にあたった。その後に公刊された著作リストをみると、会計学のトピックに対して、特に物価変動会計に対して、積極的に見解を表明したのはBellの方である。最後の著作は1997年に発表されているが、それは齢73歳の時に書かれた時価主義会計の有用性に関する研究である。Bellは2007年8月に逝去されたが、最後の最後まで、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』で展開された時価主義会計の理論を擁護しつづけたのである。
Edgar O. Edwards and Philip W. Bell, The Theory and Measurement of Business Income (University of California Press, 1961).
Peasnell, Kenneth, and Geoffrey Whittington, “The Contribution of Philip W. Bell to
Accounting Thought,” Accounting Horizons, Vol.24, No. 3 (September 2010),pp.509-518.
Moonitz, Maurice, The Basic Postulate of Accounting(AICPA,1961).佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ公認会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、1962)所収。
Sprouse, Robert T., and Maurice Moonitz, A Tentative Set for Broad Accounting Principles for Business Enterprise(AICPA,1962). 佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ公認会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、1962)所収。
Feltham, G., and J. Ohlson, “Valuation and Clean Surplus Accounting for Operating and Financial Activities, ” Contemporary Accounting Research, Vol. 11 (1995), pp.689-732.
岩田巌(1905-1955)先生は第2次大戦前に東京商大(現一橋大学)をご卒業の後、同大学助教授、同大学教授をへて、学制改革により
戦後は一橋大学教授をお勤めになられたが、50歳そこそこの若さで他界されてしまった。会計学の天才で、戦前・戦後を通
じて師の太田哲三博士とともに日本の会計理論の発展をリードされてきた。黒澤清博士などと「企業会計原則」、
「監査基準」の起草にあたり、日本の会計制度の確立にも多大な貢献をなされている(略歴は『会計学辞典』(同文
舘出版)を参照されたい)。
岩田先生の代表的著作といえば、何といっても岩田巌著『利潤計算原理』(同文舘、昭和31年3月3日)ということになる。
昨今では国際的コンバーゼンスの流れを受けて、資産・負債アプローチがかしましいが、この論争は半世紀前の動態論・
静態論の議論と重なっているところがある。そこで、岩田巌著『利潤計算原理』を書架から下して、埃を払ってみるこ
とになったのだが、読んでみて、あらためて新鮮な感銘を受けた。動態論と静態論とは貸借対照表に対する解釈が根本
から対立するが、この対立は同じ貸借対照表を違ったふうに理解したことによるのではなく、まったく別個の貸借対照表
を見ていたことによるというのである。
「上述の本質観は一つの貸借対照表に対する二つの異なる見方であると一般に信じられている。だがこう思い込んでいる
ところに根本的な誤謬がある。両者は一つの貸借対照表を問題にしているのではない。それぞれ別の貸借対照表を問題に
しているのである。企業会計には計算上の貸借対照表と事実上の貸借対照表の二種が存在することはすでに繰返して述べ
たところであるが、二つの貸借対照表学説はそれぞれこのうちの一つの考察の対象として取りあげているのである。」
(84頁)
「観察の対象がまったく別物なのである。本質観が異なるのはけだし当然のことであろう。(改行)対立の根源が異なる
ことに気づかないで、あたかも同一の対照表を問題にしていると思込んでいたところに、紛糾の根本的な原因があったの
である。それは企業会計における利潤計算の二元的構造を見究めなかった結果である。」(85頁)
最近の資産・負債アプローチは、収益・費用アプローチとの対比において、会計への見方を根本から覆すものされること
が多い。しかし、資産・負債アプローチから見ている貸借対照表と収益・費用アプローチから見ている貸借対照表はまっ
たく違うもののようであるから、二つの貸借対照表は別物とみるべきではないであろうか。もしそうであれば、半世紀前
の岩田巌説が甦ってくることになる。
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Sprouse and Moonitz 『会計公準と会計原則』とFASBの概念フレームワーク |
資産・負債アプローチ(asset-liability approach)といえば、2000年代になってからの会計学の新しい考え方だと誤解されやすい。しかし、実際には
資産・負債アプローチは昔から受け継がれてきた会計思考であり、何度も排斥されながら、何度も頭角を現してきた古典的な考え方なのである。
アメリカにおいて資産・負債アプローチが華々しく登場したのは1960年代においてであり、その旗手となったのは、California University, Berkeleyの若手研
究者Sprouseであった。しかし、Sprouseの提唱した資産・負債アプローチはまったく支持されなかったばかりか、過激な発想だという強い非難を浴びて、葬り
去られてしまった。ところが、これは資産・負債アプローチの終りにはならなかった。
アメリカにおいてFASBが創設されたとき、SprouseはStanford Universityの教授職を辞し、FASBの7名の委員のひとりに加わった。この時から資産・負債
アプローチはFASBの中で息を吹き返し、アメリカ会計学の基本思考として再生しはじめるのである。アメリカにおいて最も体系的に資産・負債アプローチ
を提唱したのはSprouseであったが、それをFASBを通じて会計実務のすみずみに浸透させたのもSprouseだったのである。資産・負債アプローチには会
計学者Sprouseの生涯がかかわっているといえるので、やや長いその物語をはじめることにしたい。
会計学者のSprouse,Robert T., は1922年1月11日、カリフォールニア州サンデエゴ郡において、5人兄弟の第4子として誕生した。1938年に高校を卒業
後、サンデエゴ州立カレッジに入学したが、2年で中退し、その後いろいろな職業を転々とした末に、1942年に徴兵により米国軍に入隊した。第二次大戦
後には、ドイツの駐留米軍内で訴訟関係の業務に従事していたが、1949年にカリフォールニアに舞い戻り、郷里のサンデエゴ州立カレッジに再入学した。
その時のサマースクールで受講した会計学の入門コースが、その後のキャリアに決定的な影響を与えることになった。その入門コースを担当したRuel Lund教授
の勧めにより、その後にはミネソタ大学に移って本格的に会計学に取り組みはじめ、同大学で1952年にBMAを、また1956にPh.Dを授与されている。それ以来、
Sprouseは会計学の研究者として頭角を現しはじめ、1955にThe University of Calfornia、 Berkeleyの会計スタッフに加わって、1961には同大学のテニュア
付きの准教授に就任した。
アメリカの会計士協会(AICPA)では1938以来、会計手続委員会(CAP:Committee of Accounting Procedures)を通じて折々に発生する現実の会計問題に
対してケース・バイ・ケースによって対処していた。しかし、1950年代になると体系的にGAAPを組み直さないことには、会計問題が解決できないことが明らか
になってきた。この認識の拡がりを受けてアメリカの会計界に巻き起こったのが、「大括りの会計原則」(broad accounting principles)を明文化する動きである。
(注)"broad accounting principles"における"broad"は、わが国では「幅広い」とか「一般的な」と訳されることが多いが、「基本的」とか「全般にわたる」という意味合いが強いので、ここでは「大括りの」という訳を当てておいた。最近になって、会計ルールは「細則主義」(rule-based)によるべきか「原則主義」
(principle-based)によるべきかが議論を呼んでいるが、アメリカでは最初から「原則主義」、それも「大括りの原則主義」であった点に注意されたい。
会計原則を制定しようとするこの動きの中で急速に浮かび上がってきたのが、会計基準設定主体の必要性である。政府の直接的な規制を嫌うアメリカでは、
民間の会計基準設定主体によることになり、AICPAを母体とする「会計原則審議会」(Accounting Principles Board:APB) が1959年に設立された。APBは
大括りの会計原則に整合的な会計ルールを制定する業務に取り組みはじめ、SECの強力なサポートを受けながら、1960年代には31本もの「APB意見書」
(APB opinions)を公表した。1973年には会計基準を設定する業務はAPBからFASBへ引き継がれたが、1960年代に世界の会計実務をリードしたのはこの
APBであった。
APBの設立当初の一般的な考え方によると、会計基準(accounting standards)というのは会計手続きの適用の仕方を定めた1組の会計ルールあるが、それは
会計原則(accounting principles)を会計処理方法という手順に具体化させたものであり、会計原則なしには会計基準は決められないと考えられていた。また
会計原則は会計公準(accounting postulates)という普遍的な前提から導出されるものであり、会計公準なしに会計原則が決められるようなことはないとされて
いた。会計公準という大前提がまずあって、この会計公準から会計原則が、次に会計原則から会計基準が導かれると考えられていたわけである。したがって、
会計基準を設定するとすれば、それが依拠する会計公準と会計原則をまず明確にしたうえで、会計基準の在り方に議論を落としていかなければならない。こう
してAPBにおいて会計基準を制定する動きは、会計公準と会計原則を研究することへの強い関心を掻き立てる結果になった。
AICPA会長, Alvin R. Jenningsは1957年10月の総会において、会計手続きが拠るべき「会計公準と会計原則」を研究することが最優先の課題だと強調し、2カ月
後に「研究計画特別委員会」(The Special Committee on Research Program)を立ち上げた。この研究計画特別委員会が示したグランド・プランにしたがって、1959年
9月にはAPBが設立されたし、またAPB附置の調査部門として「会計調査研究部」(Accounting Research Division)が開設された。この会計調査研究部の初代の
ディレクターに指名されたのが、University of California、Berkeleyの Maurice Moonitzであった。
UC Berkeleyには1955年にSprouseが着任しており、Moonitzとともに精力的な研究活動を展開していた。MoonitzがAPBの会計調査研究部のデレクターとなるととも
に、二人は会計公準と会計原則について共同研究に取り組み、さっそくその成果を取りまとめた。会計調査研究部から公刊されたモノグラフARS(Accounting Research Studies)No.1 がMoonitzの会計公準論(Moonitz,1961)であり、ARS No. 3がSprouseとMoonitzの共著の会計原則論(Sprouse and Moonitz, 1962)である。
会計調査研究部はAPBに付属する部門であったから、その研究成果のモノグラフは当然にAPBが制定する会計基準をサポートする内容のものになると、だれもが信
じていた。ARS No.1 のムーニッツの公準論(Moonitz,1961)は、抽象的に、また一般的に会計公準を論じていて、会計の具体的な問題には立ち入っていなかったから、
ほぼこの期待に添うものとみなされた。しかし、MoonitzとSprouseが共同で執筆したARS No. 3 はそうではなかった。ARS No. 3 には過激な内容が盛られているとして、
多方面から強烈な反対論が巻き起こり、公刊そのものが危うくなった。会計調査研究部の助言委員会の委員の12名のうち9名までもがコメントを寄せたが、ARS No. 3
に肯定的なコメントはわずかに1つしかなかった(訳185-215ページ)。しかし、APBでは公刊そのものは差し止められないとして、最終的には1ページにまとめたAPBの
文書(訳221ページ)を追加的に挿入したうえで、ARS No. 3 を公刊することを認めた。APBが挿入した文書には「これらの研究を現時点で受け入れるには、現在のGAAP
からあまりにもラジカルに違いすぎている、と当審議会は考えている」というAPBの意見が明記されている。
APBが「あまりにもラジカルに違いすぎる」という意見をつけたのは、ARS No. 3 では実現概念への依存が大幅に後退しているだけでなく、時価(current value)の利用
が拡大しすぎているという判断によるものである(Swieringa,2011, p.210)。しかし、ARS No. 3 では資産・負債アプローチが採用されていたから、収益・費用アプローチ
によっていたAPBと最も根本的なレベルにおいて、考え方が食い違っていたといえる。ARS No. 3 は、次のような特徴をもっていた。
ARB No.3 によって展開された資産・負債アプローチと将来志向の会計公準論・会計原則論は、1960年代初頭においてはたしかに斬新であり、十分に注目に値する理
論的内容のものであった。しかし、当時の主流は収益・費用アプローチであり、APBはこの支配的な考え方によってGAAPを成文化しようとしていたのである。ARS No. 3 は
歴史的原価会計からは隔絶していて、APBが設定しようとする会計基準とは真正面から対立する内容になっていた。このため、APBの委員たちはARS No. 3 を現実的意
味をもたない空論として論難したばかりでなく、会計公準論・会計原則論そのものに失望して、その研究を放棄してしまった。ARS No. 3 を契機にしてAPBは歴史的原価
会計に対する固執をいっそう強め、旧来のケース・バイ・ケース・アプローチに舞い戻る結果になったのである。ある論者は、次のように述べている。
「APBによる公準論・原則論研究の拒絶は、時代を画するできごとであった。APBのある委員と会計専門職の他のリーダーたちは、即座に公準・原則アプローチに幻滅を
感じてしまった。彼らは会計の根本的な変革のための基礎を開発するとか、あるいは財務諸表の情報内容を改善するといったことによりも、現状を正当化することの方に
大きな関心を抱いた。SECは歴史的原価会計への動きを前にすすめ、それからの離脱を黙認しないことによって歴史的原価会計への締付けをさらに強めた。強く織り込
まれた歴史的原価会計のモデルと思考法を、こうした努力はいっそう強めることになった。公準論・原則論研究を拒絶したことの実際的な結果は、CAPで用いられていた
ケース・バイ・ケース・アプローチをAPBが採用したということである。」(Swieringa,2011, p.211)
こうしてSprouseは、彼の主張した資産・負債アプローチとともに影を潜めてしまった。しかし、それは一時のまぼろしでしかなかった。会計学者としてのSprouseには、10年
後に、華々しい再デビュウーが待っていたし、それとともに資産・負債アプローチが蘇生し、会計実務に拡がっていくのである。
Sprouseは1962年にHarvard Business Schoolに、そして1965年Stanford Business Schoolに移籍していた。ところがSprouseは1972年に突然にStanford Universityを
辞し、初代の7名のボード・メンバーの一人としてFASBに加わった。テニュアが付いた大学教授の職を捨て、有期契約の審議会委員へ就任したわけであるから、かなりの
思を込めた決断であったとみられている。このFASBにおいてSprouseが最初に取り組んだのが概念フレームワーク・プロジェクトであり、その後約10年の間に刊行された
「概念ステートメント」No.1−No.6に深く関与することになった。
FASBの概念フレームワーク・プロジェクトにおいて収益・費用アプローチと資産・負債アプローチという2つの見解が根本的に対立していた。激しい議論が繰り返された末に、
FASBの立場が次第に資産・負債アプローチに傾斜していったことは広く知られているところである。「Sprouseは資産・負債の見解の知的リーダであった」(Swieringa,2011, p.215)といわれているから、Sprouseの基本的な考え方は1962年のARS No. 3 とまったく変わっていなかったことになる。しかし、会計基準と会計実務に対する彼の影響は、
以前とはまったく異なっている。ARS No. 3 においてSprouseが主張した資産・負債アプローチはAPBに無視されて、当時の会計基準には少しの影響をも与えなかったば
かりか、ARS No.3 は収益・費用アプローチへの固執をかえって強めただけであった。これに対して、FASBのボード・メンバーとしてSprouseが主張した資産・負債アプロー
チは「概念ステートメント」のバックボーンとなり、すべての会計基準に織り込まれていった。Sprouseは「概念ステートメント」はもとよりとして、SFAS第2号のR&D会計など、
88本の会計基準の制定に、資産・負債アプローチの立場から積極的に関与していったのである。
Sprouseは1985年にFASBを辞めるまで、12年9月もの長期にわたりFASBのボード・メンバーとして活躍し、そのうち11年は、FASBの副会長として職務に尽した。FASBを
退職後にはカリフォールニアのChula Vistaに移住して、執筆活動を続けていたが、2007年12月23日に前立腺ガンにより、85歳で逝去されたという。
【参考文献】
Maurise Moonitz, Basic Postulates of Accounting(AICPA, 1961).
佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、昭和37年)所収。
Sprouse, Robert T., and Maurise Moonitz, A Tentative Set of Broad Accounting Principles for Business Enterprises (AICPA,1962).
佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、昭和37年)所収。
Swieringa, Robert J., "Robert T. Sprouse and Fandamental Concepts of Financial Accounting," Accounting Horizons, Vol.25, No.1
(March 2011), pp.207-220.