わが国に古来から伝わる「富山の置き薬」というのは、日本の優れたビジネスモデルの一つである。商人は赤い薬箱に一セットの常備薬を満たし、それを顧客の各家庭に配置する。商人は顧客に商品を引き渡しているが、引渡時には代金を徴収しない。一年後に各家庭を巡回し、赤い薬箱の中身を点検する。そして、赤い薬箱の中で失われている薬があれば、それを使用済とし、この部分に限定して顧客に対価を請求する。提供した商品のうちで未使用部分を引き取り、「実際に使っただけ」に支払いを求める。
顧客にとって、先行き一年の間に病気に罹るかどうか、どの病気に罹るかには大きな不確実性がある。この不確実性に対処する方法の一つは、顧客が薬箱をまるごと買い取り、ありうべき病気の事態に自前で備えることである。病気に罹った時にはこの薬箱が役に立つが、幸いにも病気に罹らなかった時、あるいは予想外の病気に罹った時には、準備した薬箱はすべてムダになる。しかし、富山の置き薬によれば、このムダが回避され、顧客は「実際に使っただけ」に対して費用を負担すればよい。ムダなものを買い込むリスクが売り手の商人に肩代わりされ、買い手はそのリスクを免れている。
この富山の置き薬のビジネスモデルは、いまでもわが国に広く行き渡っている。中小のメーカーではベンダーから資材の供給を受けるが、工場の片隅に積まれているその資材はしばしばベンダーの所有物であって、メーカーのものではない。メーカーでは必要におうじてその資材を工程に投入するが、この工程投入時に、メーカーはベンダーから購入したものとみなされる。「消化した」時にはじめて「仕入れた」のであって、それまでは仕入れは行われない。これが「消化仕入れ」であるが、取引のデザインは富山の置き薬によっており、「実際に使っただけ」に対して支払をする。買い手のメーカーは、使用しない資材を買い込むリスクを免れている。
この消化仕入れは、小売業ではもっと一般的である。メーカーや卸売りは小売りに新商品を売り込もうとするが、小売りでは未知の新商品を買い取ると、その販売に失敗した時には、売れ残り損失を全額かぶらなければならない。そこで、とりあえず商品を預かり、店頭に並べる。売れた場合にはその時点で「消化した」とし「仕入れ」を行うが、売れない場合には、メーカーや卸売りに引き取りを求める。富山の置き薬と同じで、「実際に売れただけ」を買い取ることになり、売れ残りのリスクはメーカーや卸売りに転嫁されている。
この消化仕入れが大きなウェートを占めているのは百貨店、スーパーである。これらの大規模小売店でも、富山の置き薬と同じ伝統的な手法がよく使われていて、リスクがその仕入先企業に転嫁されている。アパレル商品に特にこの傾向が顕著であり、ショウケースを飾るおびただしい商品は、そのほとんどがまだ買い取られていないものである。フロアの中央を占め、その店舗の値札を付けていても、その多くは預かり物でしかない(店員もしばしば仕入先の派遣店員である)。顧客が商品を購入し、レジに売上が入力された時、百貨店、スーパーははじめて仕入処理をするが、その場合でも買い取るのは「実際に売れただけ」である。
この消化仕入れには、二つの批判的な見方がある(1)。まず第一に、売上を計上する時点まで仕入処理を裁量的に延期し、これによって在庫をオフバランスにしているという指摘がある。第二の見解は、消化仕入れは実質的には受託販売取引なのだから、本来なら純額の販売手数料を収益に計上すべきなのに、あえてグロスで売上を計上しているというものである。これらいずれからしても、消化仕入れはわが国特有の変則的な会計処理であり、会計数値を歪める裁量行動(discretion)だということになる(2)。
本稿の目的は、日本企業に特有なこの消化仕入れの仕組みを解明することにあるが、そのためには、標準的な買い切り方式とか受託販売方式に対比して、その特徴がどこにあるのかをまず明らかにする必要がある。売り手と買い手の間におけるリスク分担関係(risk sharing relationship)と、インセンティブに及ぼすその影響を分析し、なぜこのような取引デザイン(transaction design)が選択されるのかを究明しなければならない。以下では議論を簡単にするために、川上のメーカーや卸売りが売り手であり、川下の小売りが買い手になっている状況を想定するが、単純に、アパレル・メーカーと百貨店との取引関係とみなしてもかまわない。
(1) 買い切り方式におけるリスク負担
小売りが商品を取り扱う場合には、ふつうはまずメーカーや卸売りから商品を買い取り、自己のものとして所有する。これが買い切り方式――売り手からすれば売り切り方式――であり、最も標準的な取引様式である。会計帳簿においては、小売りは買い取り時に購入価額(付随費用を含む)を「仕入」に記入し、顧客への販売時に販売価額を「売上」に記入する。いずれも取引価額をグロスで記録するのが原則である。
この買い切り方式によれば、商品販売にともなうリスクは、すべて買い手の小売りに帰属する。販売に失敗し、商品を廃棄するとなれば、この売れ残り損失はその商品の所有者、つまり小売りによって負担される。商品が売れそうにもない時には、投げ売りによって売れ残り損失を軽減するが、この場合にも、小売りは見切り売りの損失を負担しなければならない。
そのほかにも、小売りが引き受けなければならないリスクは多数ある。在庫として保有する間に、風水害、火災などにより商品が滅失したり、毀損したりするかもしれない。管理を十分に行っても、紛失、盗難、破損、腐敗、漏洩、蒸発、変質などがおきるおそれがあるし、流行遅れなどのために商品が陳腐化して、正常な価格では売れなくなる可能性もある。これらの商品保管中に生じる棚卸減耗損もまた、そのリスクは小売りに帰属する。
小売りが掛販売、手形販売をすれば、さらに貸倒れのリスクが追加される。営業債権にトラブルが発生すると、法的手段に訴えるなど、特別の手立てが必要になるが、この場合にも追加のコストを負担しなければならない。貸倒れに関連するこれらの損失も、買い切り方式ではその負担は小売りになる。
(2) 買い切り方式とインセンティブ
買い切り方式によればすべてのリスクが小売りに降りかかるが、この大きなリスクが小売りのインセンティブを刺激し、その販売意欲を高めることになる(3)。商品を買い切った以上、その商品を売り尽くす以外にコストを回収する途はないから、知恵を絞りに絞って、また力のかぎりを尽くして、小売りは商品を売り捌くであろう。またマージンを少しでも多く残すために、1円でも高く販売したいという動機に駆られている。販売の見通しがあやしくなると、できるだけ多くのコストを取り戻すために、機敏に見切り売りをするにちがいない。
さらに重要なことは、こうして小売りに大きなリスクを負担させると、その調達政策が変わってくるという点である。売れ残りを避ける最善の方策は売れない商品を仕入れないことであるから、小売りは商品を厳選して、販売の確率が高い商品だけに仕入れを絞るにちがいない。「売れ筋」だけを仕入れておけば、売れ残りのおそれはない。事後の成り行きを事前に予測する合理的な行動の結果として、小売りの手持ちの商品点数(アイテム数)が少なくなり、店頭の品揃えも貧弱になる。
リスク負担がもたらすインセンティブへの影響はさらに在庫管理、債権管理にも及ぶ。棚卸減耗損も貸倒損失もだれにも転嫁できないとすれば、小売りは在庫管理に細心の注意を払うし、信用販売を許す顧客も厳選するにちがいない。あらゆる手だてを尽くして損失の発生そのものを防ごうとするから、在庫や債権の管理に緩みや手抜かりが生じるようなことはない。
(3) 買い切り方式のデメリット
買い切り方式は買手責任原則にもとづいており、いっさいのリスクが買い手の小売りに負担される。このリスクの賦課はインセンティブには好影響を与え、モラルハザードを締め出すのには効果的である(4)。小売りは知恵と労力を惜しみなく投じて、消費者に向けたサービス競争を展開する。小売りの販売活動は活性化され、店頭におけるローカル情報の活用が促される。しかし、この買い切り方式は、特にその負担力の弱い零細な小売りに、過重なリスクを負わせるものといえる。小売りに残るマージンはわずかなのに、売れ残りが出れば仕入コストの総額がロスになり、大きなダメージを受ける。そのうえに棚卸減耗損、貸倒損失が発生しかねないとすれば、小売りのリスクはあまりに重いものになる。このリスクの過大負担が買い切り方式の最大の難点である。
買い切り方式がもつ第二の問題は、小売りが仕入商品を絞り込むために、販売の見込みが薄い商品が流通ルートに乗らないという点である。買い切り方式によるかぎり、販売に成功する確率が高くないと、小売りは商品の仕入れを断念する。小売りが仕入れを絞れば、品揃えが貧弱になるだけでなく、販売の見通しが不確かな商品が小売りの店頭に現れず、消費者との接点を失ってしまう。これは消費者にとってもマイナスであるが、メーカー、卸売りにとっては出口を塞がれるのと同じであり、大きな痛手である。
第三の問題は、品揃えが貧弱になれば、小売りの集客力が落ちるという点である。品揃えは消費者に対する重要なサービスの一つであるから、品揃えが豊かであるほど小売りの競争力は強くなるし、小売りの競争力が上がると、その恩恵は川上企業にも及ぶ。それにもかかわらず、買い切り方式によると、小売りの競争力は下がってしまう。
第四の問題として、小売りがしばしば投げ売りに走り、このため値崩れがおきやすいという点が挙げられる。買い切り方式の場合、価格設定の権限は小売りにあり、川上企業は小売価格へのコントロール権を失っている。この状況において、売れ残りを恐れる小売りが値下げを繰り返すと、流通の末端で値崩れがおきてしまう。川上企業にとっての重大な脅威はこの「価格破壊」である。
買い切り方式が引き起こすこれらの問題は、すべてリスクの過大負担に根ざすものである。したがって、小売りのリスク負担をいかに減免するかがカギになるが、受託販売方式によると、売り手と買い手の間のリスク分担関係がまったく逆になる。受託販売方式は買い切り方式の対極に位置しており、小売りのリスクをすべて免除してしまうのである。次節で、この点を明らかにしよう。
(1) 受託販売方式とリスク負担
メーカー、卸売りなどの川上企業が小売りに商品を預託し、その販売を委託するのが委託販売であり、委託を受ける小売りの側からは受託販売といわれる。受託販売では、小売りが委託者の身代わりなって、委託者の商品を顧客に販売する。小売りが顧客への販売に成功すれば、販売数量にもとづいて委託者から小売りにコミッション(口銭)が支払われる。会計記録では、このコミッションを「販売手数料」として、純額で収益に計上するのが慣わしである。
この受託販売においては、小売りは委託者の商品を預っているだけであり、その所有権はメーカーや卸売りにある(委託者側の帳簿では「積送品」として分記されるのが通例である)。このために、小売りは在庫投資を回避できるだけでなく(5)、商品の所有にともなういっさいのリスクを免除される。商品が売れ残っても、棚卸減耗損や貸倒損失が出ても、その損失を負担するのは委託者である。
(2) 受託販売方式とインセンティブ
受託販売においては、小売りはリスクを免れるが、このリスクからの解放は小売りのインセンティブを、したがってその行動を変えてしまう。損失をこうむるおそれがなくなると、小売りの緊張が弛緩するために、モラルハザードがおきがちになって、小売りの調達活動や販売活動が変化してしまうのである。
まず第一に、売れ残りを懸念する必要がなくなると、小売りは販売のインセンティブを弱めることになる。買い切り方式であれば、売れ残りを出さないために、小売りは全力で売り捌くのに、受託販売方式によれば、売れ残りが出ても、その損失は委託者の負担になる。リスクを免除されている小売りは販売努力水準を低下させるし、小売りが保有する店頭のローカル情報も十分に活かされないという結果になりやすい。
第二に、小売りの調達政策が変化する。受託販売方式によれば、小売りは売れ残りを恐れなくなるから、少しでも販売の可能性があるかぎり、商品を店頭に並べようとする。小売りは競ってアイテム数を増やし、顧客に豊かな選択の機会を提供する。このインセンティブの変化によって品揃えが豊かになって、小売りの集客力が向上するし、販売可能性の低い商品にも販路が開かれる。これは消費者や小売りにとってだけでなく、川上のメーカーや卸売りにとっても大きなメリットである。
第三に、小売りは投げ売りの動機を失うことになる。受託販売方式によると、メーカー、卸売りは商品の所有権を握っているから、小売価格を指定する権限を留保しており、所有者の承認なしに安値販売が行われるようなことはない(6)。たとえこの価格指定権がないとしても、売れ残りが委託者に引き取られるかぎり、小売りは無理をしてまで、商品を売り尽さないであろう。これは、委託販売方式によれば、流通の末端で値崩れがおきにくいということを意味しており、川上のメーカーや卸売りにとっては大きな恩恵である。
第四に、商品所有にともなうリスクを負担しないことの結果として、小売りにおける在庫や債権の管理が甘くなるという現実問題がある。受託販売において棚卸減耗損や貸倒損失を負担するのは川上企業であり、小売りではない。このため、小売りが行う在庫管理や債権管理はとかく不徹底になりがちで、棚卸減耗損や貸倒損失が増える可能性がある。これもモラルハザードの現れといえる。
(3) 受託販売方式とモラルハザード
買い切り方式では小売りがすべてのリスクを取るのに、受託販売方式ではメーカーや卸売りが小売りのリスクをカバーする。このリスクの肩代わりによって小売りの行動が変化するが、取引相手に波及するその影響は川上企業にとって不利なものばかりではない。販路が確保できるとか、値崩れを防げるという点だけでも、メーカーや卸売りが享受できるメリットは少なくない。
しかし、受託販売方式によると、小売りにモラルハザードが拡がり、その悪影響が川上企業にも波及する。小売りの活動水準が低下すれば、売れ残り損失、棚卸減耗損、貸倒損失が増えるが、これらの損失を引き受けるのはメーカーや卸売りである。当然のこととして、追加のコストを支払ってでも、モラルハザードを食い止めたいという動機が川上企業に醸成される。このため、売り手と買い手の間に企業間のコントロール・システムが発達する(7)。
モラルハザードへの対応策の例としては、リベート条項と在庫管理責任条項がある。小売りの販売数量におうじて累進的なリベートを支払えば、受託販売方式によっても小売りの販売意欲は高まるであろう。小売りが責めを負う棚卸減耗損に対して懲罰的なペナルティを賦課すれば、在庫管理は徹底するにちがいない。実際の受託販売契約にはこれらの条項が盛られていることが多いが、これはモラルハザードのコントロールがいかに重要かを示すものである。
モラルハザードへの対応策としては派遣店員制もよく使われている。メーカーや卸売りがその従業員を小売りの店頭に派遣すれば、小売りの販売活動と在庫管理が派遣店員によって代行され、小売りのモラルハザードの問題は軽減される。川上企業の従業員が小売りの店頭で商品を管理し、直接に消費者に対応すれば、販売努力水準が下がったり、在庫管理が甘くなったりするような結果は避けられる。
(1) 消化仕入れの特徴
さて、消化仕入れにおいては、小売りがレジに売上を打ち込んだ瞬間に、メーカー、卸売りの商品を買い取り、グロスの取引価額により「仕入」と「売上」とを記帳する。この会計処理は明らかに買い切り方式と同じであり、一見したところ、この取引デザインが特殊なようにはみえない。顧客との関係でいえば、小売りは商品の引渡しを終え、販売対価を獲得しているから、実現主義の要件を完全に満たしている。また仕入先との関係でも、小売りの仕入処理は取引相手の売上処理とも、また証票書類とも符合している。小売りの仕入れは相手側の売上であるから、仕入先企業もまた同一時点に納品書を発行し、小売りの仕入額に見合う売上を計上している(8)。小売りの買掛金は仕入先企業の売掛金に一致しているし、決済もグロスの取引価額で行われる。
しかし、消化仕入れにおいて、小売りが仕入処理をするのは「実際に売れただけ」であり、しかもその時点は販売時まで繰り下げられる。売れなかった商品には最初から最後まで仕入処理が行われない。「実際に売れただけ」について形ばかりの仕入処理が行われるが、実質的には、商品の買い取りは行われておらず、商品は所有されていない。この点において、消化仕入れは買い切り方式よりも、むしろ受託販売方式に似ているといえよう。
消化仕入れと受託販売との間には、たしかに相違点もないわけではない。受託販売には所有権の移転がともなわないから、売れたかどうかにかかわりなく、小売りが仕入処理をするようなことはないし、「仕入」や「売上」をグロスで記帳するようなこともない。しかし、重要なのはこうした形式上の違いよりも、むしろリスク分担関係という実質問題の方である。消化仕入れでも受託販売方式でも、小売りの商品を所有するのはメーカーや卸売りなのであり、小売りはリスクを引き受けていない。
富山の置き薬では、「実際に使っただけ」に対して対価を請求する。使用しなかった薬は売り手が引き取り、買い手のリスクを免除する。消化仕入れの取引デザインはこの富山の置き薬と同じだから、小売りは売れ残り損失も、棚卸減耗損も免れているし、在庫投資の資金コストも負担していない。商品の所有権を買い手に移転させないことによって、リスクを免除している点は、富山の置き薬も、受託販売も、また消化仕入れも同じなのである(9)。だが、このリスクの免除はインセンティブに悪影響を及ぼし、モラルハザードを引き起こす。
(2) 消化仕入れとモラルハザード
わが国では、特に小売業に消化仕入れが拡がっているが、この日本的な取引デザインが存続しているのは、それなりの合理性があって、売り手にも買い手にもそのメリットが大きいことによる。小売りにとっては売れ残り損失はもとより、棚卸減耗損も貸倒損失も経営を脅かすものであり、できるだけ避けたいリスクである。消化仕入れによると、貸倒れのリスクだけは小売側に残るが、その他のリスクはすべて卸売りが肩代わりしてくれる(10)。このリスクからの開放は、小売りにとって大きな救いである。
消化仕入れによると商品の品揃えが豊かになるが、これは小売りの競争力を高めるだけでなく、メーカーや卸売りにも有利な結果をもたらす。川上企業は販売促進にあたり、「小売りに損はさせない」と説得し、不人気な商品でも押し込むことができる。販売の確率が低い商品でも流通ルートに乗るし、またそうであれば新旧商品の入れ替わりも促され、市場は活性化されるであろう。さらに、消化仕入れによれば値崩れが防止できるという点も、川上企業にとっては大きな魅力である。川上企業はリスクを取るが、その見返りも少なくない。
しかし、消化仕入れにはデメリットもまた多い。まず、消化仕入れによると、リスクの免除を受けた小売りがインセンティブを下げ、活力を低下させることが考えられる。小売りでは組織のすみずみにまで緩みが拡がり、「やる気」がそがれるおそれがある。知恵を絞りに絞るという知的活動も鈍りがちになるし、現場のローカル情報も活用されにくくなる。リスクの免除には、モラルハザードがともなう。
すでに述べたように、このモラルハザードを緩和する企業間のコントロール・システムもないわけではない。たとえば累進リベート条項とか、在庫管理責任条項によれば、販売意欲を掻き立てたり、現場の管理責任を強調したりすることが可能である。派遣店員制もまたモラルハザード問題への対応策の一つであり、小売りにおける販売意欲の減退をカバーする重要な手段をなす。しかし、これら対応策によると、契約関係が複雑になるだけでなく、排他的な取引関係が助長され、取引コストが高くなる。また売り手と買い手の役割分担に影響が及び、パワー関係が変わることさえある。その一例が派遣店員制である。
派遣店員制によれば、小売りの人件費はその仕入先に肩代わりされ、小売りはたしかにコストを節約できる。しかし、派遣店員が代行する小売りの業務が拡がれば拡がるほど、川上企業が小売りに「侵入する」程度も深くなり、それだけ小売りの機能は縮小する。そのうえ、小売りの店頭におけるローカル情報も、顧客に接する派遣店員に握られてしまい、小売りの商品開発力、価格交渉力は低下する(11)。コスト節約の結果として、小売りは店頭情報という重要な経営資源を奪われ、「売場貸し」になってしまうおそれさえでてくる。リスクを避け、コストを避けることの代償もまた大きい。
リスクはだれしも避けたいものだから、リスクの肩代わりが行われると、競争市場では免除を受けた側が負担した側に、何らかの形でリスク・プレミアムを支払わなければならない。コストの肩代わりにも同じことがいえるから、消化仕入れによって小売りのリスクやコストを川上企業に転嫁すると、それだけ小売りの事業基盤が脅かされ、マージンも薄くなる。国際水準に比較して、日本の小売企業のマージンが低いのは、消化仕入れによって、リスクとコストを回避していることと無関係ではありえない。
消化仕入れは富山の置き薬と同じ取引デザインによるもので、おそらくは海外には比類のないものである。しかし、それがわが国特有の取引デザインなのであれば、このことはとりもなおさず日本企業の会計数値には特異性があり、海外企業の会計数値と単純には比較できないことを意味している。買い切り方式が国際標準だとすれば、消化仕入れは日本企業の会計数値にかなりの歪みをもたらしていることになる。
消化仕入れによれば、小売りは「無在庫経営」となって、その貸借対照表から棚卸資産が消える。その代わりに、小売りの店頭に並べられている商品がメーカーや卸売りの在庫となって、その棚卸資産を膨らませる。事実、わが国では川上企業が膨大な「流通在庫」を抱えているが、その多くは流通段階に滞留している積送品であり、海外企業なら小売りの在庫に含まれているはずのものである。消化仕入れによる結果として、本来なら小売りにあるはずの棚卸資産が、わが国では川上企業の貸借対照表に移動しており、このために同じく「棚卸資産」といっても、わが国ではその中身が違ってきている。
小売りの棚卸資産が川上企業の貸借対照表に移ると、海外企業と比較した場合、小売りでは棚卸資産や資産総額が過小に、川上企業では棚卸資産や資産総額が過大に表示される。これらの資産価額の歪みはROI、ROEなどの財務指標も変えるから、その影響は小さくない。小売企業においては、ROI、ROEが高く表示されるのに、川上企業においては反対に、ROI、ROEが低く表示される結果になろう。
日本企業の利益率は、国際水準に比較して極端に低い。この低い利益率についてはいくつかの原因が指摘されている。日本では確定決算主義によっているから、この税制の影響により日本企業では控え目な利益が公表されるというのもその一つである(12)。日本の会計ルールは国際的な会計ルールと異なる部分が多いから、この会計ルールの違いのために、資産価額や利益額が過大または過小になるというのはもう一つの例である。しかし、本稿で指摘したのは税制の違いでもなければ、会計ルールの違いでもない。日本の会計数値に特異性をもたらしている要因の一つは取引デザインなのである。わが国には消化仕入れという変則的な取引デザインが拡がっているが、これもまた会計数値を「日本的」にしている原因の一つなのである。しかも興味深いことに、この取引デザインは、富山の置き薬という、古来から伝わる日本のビジネスモデルによっている。
<注>
(1) 消化仕入れにはいろいろな名称があり、「売上仕入れ」と呼んでいる業界もある。また、小売りの従業員が店舗を管理するケースと、派遣店員が店舗を管理するケースとを区別して、前者を「消化仕入れ」と、後者を「売上仕入れ」と呼ぶこともある。
(2) 外部に公表する会計数値を意図的に歪めるのが裁量行動であるが、一般には利益数値をターゲットにする利益数値制御(earnings management)に関心が集まっている。しかし、売上高を膨らませるのも、また資産価額を圧縮するのも、ターゲットは異なるものの、同様の動機にもとづく裁量行動とみなければならない。この点については、Schipper[1989]、岡部[1994;1997;1998]を参照されたい。
(3) リスクとインセンティブとの間にはトレードオフの関係があり、一方を追求するには他方を犠牲にしなければならない。インセンティブを刺激するにはリスク負担を引き上げなければならないが、だれしもリスクを嫌う傾向(リスク回避的性向)があるから、リスク負担を増やすことは歓迎されない。しかし、そうだからといって、リスク負担を軽減すると、インセンティブには悪影響が出て、勤労意欲が減退する。この点の詳しい説明については、岡部[1993]の2章、 Milgrom and Robert[1992]の6章を検討されたい。
(4) モラルハザード(moral hazard)――道徳的危険とか道徳的陥穽ともいわれる――というのは、リスクの肩代わりにともない、緊張が緩み、勤勉さ、努力、創造力、注意力、忠誠心、責任感などが損なわれる現象を指す。怠惰、手抜きなどもその現われの1つであるが、とかく見落とされやすいのは知能的活動の不活性である。モラルハザードが発生している状況では、人の観察力、思考力などが減退しており、知的資源が十分に活用されないということになりやすい。この点についても、Milgrom and Robert(1992)の6章が参考になる。
(5) 在庫をもつには資金の投下が必要になり、その資金コストを負担しなければならない。しかし、在庫をもたずにすめば、この資金コストが浮き、それだけ経費の負担が軽くなる。
(6) 市場の取引関係であっても、川上の売り手と川下の買い手とが共通の利益を追求しているかぎり、いかに双方に有利なように最終小売価格を設定するかという最適化問題が重要になってくる。受託販売では、川上の売り手が価格設定権を握り、小売りの販売価格を指示できるから、再販売価格維持契約と同じ状況が生まれている。この再販売価格維持契約がもたらす経済効果については、Tirole[1988]が有益な分析をすすめている。
(7) 売り手と買い手という独立組織の間の垂直的関係においても、取引相手へ意思決定権限を委譲した場合には、取引相手の行動をコントロールすることが不可欠になり、企業間のコントロール・システムが生まれる。ここではその詳細に立ち入らないが、垂直的統合における取引相手のコントロール・システムについては、岡部[1993]、Tirole[1988]を検討してほしい。
(8) 売り切り方式による場合には、売り手は小売りに商品を引き渡した時点に売上を計上し、納税を行わなければならない。しかし、委託販売によれば、委託先の小売りが販売するまで、売上の計上が遅れ、対応して納税のタイミングも延期される。消化仕入れの場合にも結果は同じなるが、納税のタイミングが遅れるのは、川上企業からすると、委託販売と消化仕入れに共通するメリットだといえる。
(9) ここでは深く立ち入る余裕がないが、返品制も、富山の置き薬のビジネスモデルによっており、買い手はリスクを取らない。たしかに返品制では、小売りが最初に商品を買い取り、自己の所有にするが、売れ残りは返品できるから、売れない商品を買い取るリスクはない。売れなかった商品を全部返品してしまえば、「実際に売れただけ」に対して支払いをしていることになる。この点で、返品制は消化仕入れと共通する点が多い。
(10) 受託販売、消化仕入れ、返品制を比較し、どのリスクを回避しているかという点になると、微妙な違いがある。受託販売では、小売りは最初から最後まで商品を買い取らないから、売れ残り損失、棚卸減耗損、貸倒損失のすべてを免れる。消化仕入れでは、顧客への販売時点において小売りが商品を買い取るから、売れ残り損失と棚卸減耗損を免れるが、買い取り以降に発生する貸倒損失のリスクを引き受けなければならない。返品制では、小売りは最初から買い取っているが、売れ残り損失は免除されている。しかし、返品制では商品の所有権が小売りにあるし、営業債権も小売のものだから、棚卸減耗損と貸倒損失のリスクは小売りが引き受けることになる。
(11) 消化仕入れでは、小売りは販売した瞬間に仕入れるが、その仕入れは仕入先からすれば売上である。そこで、仕入先の派遣店員も、小売りが販売した瞬間に自社の売上伝票を起こし、本社に報告する。川上企業では、派遣店員からのこの小売りの販売報告を積み上げているが、この情報資源が商品企画、販売戦略の立案などで威力を発揮することになる。
(12) 国際水準からみた日本企業における会計数値の特性については、Kaplan[1994]に有益な指摘が多い。
<参考文献>
Kaplan, Steven, “Top Executive Rewards and Firm Performance: A Comparison of Japan and the United States, Journal of Political Economy,” Vol. 102, No. 3 (1994), pp. 510-546.
Milgrom, Paul, and John Robert, Economics of Organization and Management (Prentice Hall Inc., 1992). 奥野正寛ほか訳、『組織の経済学』(NTT出版、1997年)。
岡部孝好、『会計情報システム選択論(増補)』(中央経済社、1993年)。
岡部孝好、『会計報告の理論――日本の会計の探求――』(森山書店、1994年)。
岡部孝好、「利害調整会計における意思決定コントロールの役割」、『企業会計』第49巻5号(1997年5月)、4-10頁。
岡部孝好、「会計上の利益数値制御における税コスト仮説と財務報告コスト」、『国民経済雑誌』(1998年8月)、39-52頁。
Schipper, Katharine, “Commentary on Earnings Management,” Accounting Horizons, Vol.3, No.4 (December 1989), pp.91-102.
Tirole, Jean, The Theory of Industrial Organization (The MIT Press, 1988).